By using our site you agree to the use of cookies. We use them to increase the quality of this site especially for you, they help us understand your needs (help us collect statistics), help our partners deliver the right content displayed on our website. To learn more about the cookies please click here.

cookies
noimage

秋田城

 奈良時代にから平安時代にかけて、出羽国(でわこく、現代の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵で、軍事施設として、また行政施設として機能していました。東北地方各地に同じような城柵が造られましたが、秋田城は最も北に位置していたため、出羽国北部地方の軍事、行政の中心的な役割を担い、また律令国家の支配外にあった北東北や北海道との交易、大陸との外交も担うなど重要な役割を持っていました。発掘調査により渤海(ぼっかい、中国北東部から朝鮮半島北部、ロシア沿海地方にかけて存在した国家)との交流を伺うことのできる事実も指摘され、渤海使の受け入れは秋田城が担っていたと考えられています。

 日本の史跡に指定され、続日本100名城(107番)にも選定されました。現在城跡には高清水公園や秋田県護国神社が遷座しています。

歴史

 秋田城の創建は733年(天平5年)、出羽柵(いではのき、山形県にあった城柵)が秋田村高清水岡に遷置されたことに遡ります。当時の朝廷は、東北地方の蝦夷を征服し、支配域の拡大を図っていました。出羽柵の遷置は支配域の北上に伴って行われたと考えられています。

 天平宝字4年(760年)頃には出羽柵は秋田城と改称されました。しかし当時の貴族である安倍家麻呂(あべのやかまろ)と朝廷の間で秋田城の停廃が検討されましたが、朝廷はこれを認めず、むしろ国司を置き秋田城の防護を担わせ、秋田城の大規模な改修も行われたそうです。これより国司は出羽城介(でわじょうのすけ)という役職名で襲名され、出羽国北部の統治にあたるようになりました。

 天平7年(830年)に起こった秋田地方の大地震や元慶2年(878年)の元慶の乱と天慶2年(939年)の天慶の乱(徐々に朝廷の支配下に置かれ始めていた蝦夷の人々の大規模な反乱)などを経て、秋田城は10世紀中ごろまで機能していたとされています。10世紀後半には城柵としての機能は完全に失われたとされていますが、その後の歴史資料にも秋田城の名称や、官職名としての出羽城介の名称が記載されています。また鎌倉時代に入ると、北方を防護する役職には「秋田城介」という官職名が与えられ、武門の名誉であったとされています。

見どころ

・高清水公園

日本の歴史公園100選に選定されている秋田城の史跡公園で、園内には当時の門や井戸、水洗トイレなどが復元され、秋田城跡歴史資料館も開館しています。春には高清水公園さくらまつりが開催され、秋田新国道から護国神社にかけてまるで桜のトンネルのようになります。

・古代水洗厠舎跡(こだいすいせんかわやあと)

全国でも類を見ない立派な水洗トイレの遺構が発掘されています。このトイレの沈殿槽の土からは豚を食習慣としている人々が感染する寄生虫(有鉤条虫卵)が発見されていて、豚の飼育が盛んな渤海の人々が使用した可能性が高いとされています。この発見も秋田城が渤海との交流、また朝廷の外交の窓口として機能していたとされる理由の一つとなっています。

・秋田城跡歴史資料館

2016年に開館され、発掘された資料や秋田城のジオラマ、赤外線カメラを使った漆紙文書の読み取り体験などができるコーナーがあります。

・外郭東門と築地塀

平成6年から4年をかけて発掘調査に基づいて、外郭東門と築地塀(土塀に屋根を上げ瓦で葺いた平)実物大の復元がなされました。秋田城は周囲550メートル四方を築地塀に囲まれ、東西南北に門があったが、そのうちの東側の門と築地塀が復元されました。

・城外側の大路

東門後方にも続く城外にある幅12メートルにもなる大路が復元されました。敷石などは発見されていないため、土の道路だったと考えられています。

・古代沼

飛び砂によって川がせき止められて出来たとされる自然の沼も復元されています。

開園時間

秋田城跡歴史資料館

【開館】 9:00~16:30
【休館日】 12月29日~1月3日