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山形城

 「おいしい山形」―――、さくらんぼや米沢牛、お米に玉こんにゃくなど、このキャッチフレーズにふさわしい、たくさんのおいしいもので溢れているこの県に山形城があります。  山形城は本丸・二ノ丸・三ノ丸の三重の堀と土塁で囲まれた、日本国内では5番目の広さという全国有数の規模を持つ輪郭式の平城で、奥羽地方では最大の城だったのですが、度重なる藩主交代に伴って石高が削減されたため、維持することすら困難になり、修理されずに荒廃したままである部分もありました。残念ながら現在は、そのほとんどが失われ、二の丸跡が霞城公園として整備され残されています。霞城公園は、市街地のほぼ中央に位置し、約35.9haの面積を有する山形城跡を整備した都市公園です。霞城公園の「霞城」という名は、出羽の関ヶ原合戦に関連した、米沢城主の直江兼続率いる上杉軍による長谷堂合戦現の際に、山形市街地の西にある富神山の麓の菅沢に陣を構えた上杉勢からは、霞がかかって城郭が隠れて見えなかったことから、山形城が「霞ケ城」とも呼ばれていたのを受け、そこから名づけられました。昭和61年(1986年)に国の史跡指定を受け、平成18年には「日本100名城」に認定されました。

 また、この霞城公園は桜の名所でもあります。春にはおよそ1500本ものの東から南堀沿いの桜がライトアップされて、夜でも公園内から、また外側からも夜桜を楽しむことが出来ます。桜が満開の時期になると、大茶会などの風流なイベントも開かれ、大勢の人でにぎわいます。公園内やその近くには、山形市郷土館(旧済生館病院本館)、山形県立博物館、山形美術館、最上義光歴史館などの多くの文化施設もありますし、またさらに地図を拡大して、専称寺や光禅寺など、山形市内には今もなお歴史ある寺院やほかの史跡も数多く残されており、山形城の歴史の様々な一面を見ることができます。観光案内所やホテルなどで受付できる、「城下町やまがた観光レンタルサイクル」とともに山形城の面影を散策しながら、山形県の歴史や文化に触れてみてはいかがでしょうか。

歴史

 延文元年(1356年)に羽州探題として、山形県に南朝方の大江氏などを攻略するため入部した斯波兼頼(最上家初代)が築城したのが始まりと伝えられ、現在の城郭は最盛期57万石とされている、第11代城主最上義光(1546~1614年)が築いたものが原型とされています。

 延文2年(1357年)に斯波兼頼が初期の山形城を築き上げ、それより斯波兼頼は「最上氏」を称するようになり、代々山形城を居住としていました。特に戦国時代になった最上家第11代当主最上義光の時に、山形城の整備拡張が進められ、城郭が拡大されて三つの堀ができ、家臣団の屋敷なども置かれました。さらに関ヶ原の戦いによる功績で、慶長7年(1602年)には最上義光は前述にもあった57万石の大大名になると、実質100万石の城下町として山形は繁栄を誇りました。これは当時の外様大名の中では全国5位の石高だったと言われています。山形藩の政庁もここに置かれていました。 

 そのあと、最上義光の孫である最上家信の代に、家中不取締りの罪により最上氏は改易されてしまい、現在残っている二ノ丸の堀や土塁・石垣は、最上家改易後、元和8年(1622年)に城主となった鳥居忠政(24万石)により整備されたと伝えられています。

鳥居氏の以後、城主は11氏(幕領は2回)が頻繁に交替し、改修もなされましたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が難しくなっていきました。幕末には本丸は更地になってしまい、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていたようです。最後の城主であった水野氏の時代(1845-1870年)には、僅か5万石で明治維新を迎えたと言われています。

 明治2年(1869年)の版籍奉還より、明治3年(1870年)に山形藩が転封という、大名の場所を違う場所へ移すことになったときは、長く使われずにいた城郭は大破し、外壁や矢倉も風雪に耐えかねる状態でした。建物や櫓はすべて壊されたそうです。山形城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致しました。明治29年(1896年)に陸軍歩兵第三十二連隊が入隊し、兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられました。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利用されました。大正10年(1921年)に、日露戦争凱旋を記念して、歩兵三十二連隊の帰還将兵が城の周りにソメイヨシノを1000本植樹したことにより、これ以降山形城跡は桜の名所となりました。

 戦後、二の丸跡の内側は霞城公園になり、二の丸跡の外側は市街地化が進み、三の丸の濠も埋め立てられ、昭和24年(1949年)に、霞城公園として一般に開放されました。また昭和61年(1986年)5月に、本丸及び二ノ丸跡と三ノ丸跡の一部が、国の史跡に指定される運びとなりました。これにより、江戸末期の資料に基づいて東追手門や本丸の復元が行われました。特に二ノ丸東大手門は、市制100周年記念事業の一つとして昭和62年(1987年)に着工され、約6年の歳月を費やし、平成3年(1991年)3月、史実によって木造建築で復原されました。この門は東京にある江戸城の城門と同じ規模です。平成18年(2006年)の4月6日に日本100名城(10番)に選定されました。

現在は、公園を再整備するために二ノ丸内にある博物館、郷土館、野球場などを移設しようという計画があるそうです。

見どころ

二の丸東大手門

二ノ丸東大手門は、市制100周年記念事業の一つとして昭和62年(1987年)に着工され、約6年の歳月を費やし、平成3年(1991年)3月、歴史書から忠実に再現されて、木造建築の山形城の正門です。この門は東京にある江戸城の城門と同じ規模です。

最上義光騎馬像

昭和52年(1977年)に建てられたこの像は、山形城が一番の繁栄を誇っていた時代の城主であった最上義光です。上杉景勝の重臣であった直江兼続が攻め入った際に、最上義光自身が先頭を切って戦場へ向かっていく勇ましい姿を山形鋳物で堂々と作り上げられたものです。

山形市郷土館(旧済生館本館)

山形市郷土館は国指定重要文化財の旧済生館本館を活用した施設です。旧済生館本館は、明治11年(1878年)9月に建てられた擬洋風の病院建築物です。最初は県立病院として使用されていましたが、以降民営移管となり、さらに後に市立病院済生館の本館として使用されました。竣工当時は医学校が併設され、オーストリア人医師のローレツが近代医学教育を教授しました。国の重要文化財に指定されたことから、それに伴い霞城公園内に移築され、復元されました。昭和44年(1969年)に移築復元工事はおわり、その二年後に「山形市郷土館」として新たに出発しました。現在は1階と2階が一般に公開されており、郷土史・医学関係資料などが展示されています。