
柳野城(五稜郭)
国の特別史跡に指定されている柳野城、別名五稜郭は北海道を代表する城として全国にその名前が知れ渡っています(以下五稜郭)。五稜郭は他の多くの日本にある城とは異なり、日本で初めてヨーロッパの築城方式が用いられました。長野県佐久市にある龍岡城も五稜郭という別名がありますが、単に五稜郭というと通常函館の柳野城を意味します。五稜郭という名前に五が入っているように、その一番の特徴は星形の要塞であることです。歴史的にもとても重要な城であり、幕末に幕府軍と官軍の戦いとして知られている戊辰戦争の最終戦函館戦争の舞台となりました。柳野城という名前の由来はもともと築城された場所が湿地帯であり、ネコヤナギ(学名:Salix gracilistyla)が多く生えていたことからきています。年間を通して様々なイベントがあり、夏の木々、秋の紅葉、冬の積雪のように季節の移り変わりとともに別の姿を現します。しかし何といっても五稜郭は桜の名所として春には特ににぎわっています。また北海道にあるため本州よりも遅い5月の初めに花見を兼ねて訪れることがお勧めです。2010年には函館奉行所も復元され、五稜郭タワーからの景色も絶景です。函館を訪れた際には日本の歴史を知る上でも絶対に外せない場所です。
五稜郭の歴史は江戸時代の鎖国政策が崩れたところから始まります。江戸幕府は200年以上続き、その間敷かれていた鎖国政策が崩壊した大きなきっかけは1853年にアメリカからペリー艦隊が来航したことです。これはいわゆる黒船来航として知られており、アメリカからの開国要求に従って幕府は日米和親条約を締結しました。この条約はアメリカの船に対して食料や水などを補給することなどを取り決めています。この時、伊豆の下田と現在五稜郭がある函館を開港場所として設定しました。同年、幕府はイギリスやロシアとも同様の和親条約を締結します。 開国に伴って外国との交渉や国土の防衛などをする必要性が生まれ、函館に函館奉行が置かれました。しかし当時の役所は人口が密集した場所にあり、厳しい生活環境、そして港に近いことから外国から侵略を受けた際に標的になりやすいということもあり、場所を内陸へ移動させることとなりました。その際、現在の五稜郭にある水堀を作ることも決まりました。(もっと)
見どころ
五稜郭タワー
五稜郭公園の隣にあるタワーで、上から五稜郭が、そして函館市内や津軽海峡までもが一望できます。このタワーは2006年に建てられた107メートルのものですが、それ以前には45メートルのタワーがありました。タワーは全面ガラス張りの二層構造で、中では五稜郭の歴史などを紹介している展示を見ることができます。
函館奉行所
江戸幕府が設置した役所で、函館戦争が終わって2年たった1871年に解体されました。しかしその後発掘調査などを経て、2010年に一部が復元されました。内部では五稜郭の歴史を解説している展示を見ることができ、一番の見どころは大広間や執務室などが再現されたスペースです。大広間の一番奥にある部屋は旧幕府から明治新政府への引継ぎが行われた場所です。
兵糧庫
戦争で多くが破壊された五稜郭ですが、兵糧庫は当時の姿を今に残しています。建設当時、兵糧庫は米蔵として建設されました。しかしその後勃発した戦争の影響で兵糧庫と呼ばれるようになりました。
開園時間