
青葉城(仙台)
仙台城を築城したのは初代仙台藩主であった伊達政宗です。時代は天下分け目の決戦として知られている関ケ原の戦いが終わったばかり、1600年12月でした。築城工事は1602年まで続いたとされています。仙台城の特徴は土地の理を生かした山城というところにあります。本丸の東には断崖と広瀬川、西には御裏林と呼ばれている山林、そして南には竜ノ口渓谷があり、城の場所自体が高さ約130mと自然によって城自体が守られています。仙台城がこのような場所に建てられた理由は、関ケ原の戦い以降も徳川幕府に敵対する上杉氏との合戦に備えたためだと言われています。落雷による火災や地震などの自然災害によって一度はほぼ全体が焼失した仙台城ですが、1997年から始まった大規模な改修工事を経て歴史的な見直しが進み、2003年には国史跡として指定されました。仙台城の城下町として栄えた仙台を訪れるなら、仙台城跡は必見の場所です。今現在私たちが見ることができる仙台の街は仙台城を中心に発展しました。街が一望できる高台に建ち、当時の仙台城の繁栄を感じてみてはいかがでしょうか。
仙台城を築城した伊達政宗は1591年に現在の山形県米沢から宮城県の岩手沢城に移りました。その後1600年に、後に江戸幕府を開く徳川家康より100万石のお墨付きを得、当時「千代」から「仙台」へと名称を改めて城の縄張りを行いました。これが仙台城の始まりです。その翌年から工事を進め、1602年に一応の完成がみられ、1603年に政宗は仙台城に入城します。しかし本丸が完成したのはその7年後の1610年でした。仙台城の築城に伴って、その城下町となった仙台の街も整備されて行きました。仙台は広瀬川をはさんで城の東側に広がっています。
鎖国をしていた江戸時代にあっても、仙台城はスペインの探検家であったセバスティアン・ビスカイノが訪れたことで知られています。ビスカイノは徳川家康から日本沿岸の測量許可をもらい、1611年11月に伊達政宗に仙台城にて対面しています。 また、1613年にはフランシスコ会宣教師であったルイス・ソテロも仙台城を訪れ、その後東北地方での布教をしています。それだけ当時の東北において仙台城が中心的な存在であったことが分かります。それは政宗が1615年に大坂の陣に出兵をするなど江戸幕府との緊密な関係を築いていたからに違いありません。そのため伊達政宗は62万石の城の築城を許されたのです。一方で徳川家康の警戒を避けるという理由から天守閣の建設は行われなかったと言われています。繁栄をきわめた仙台城ですが、1616年には地震で石垣や櫓が被災してしまいました。(もっと)
見どころ
本丸
本丸は広さが東西に245m、南北に267mと数いた江戸時代の大名の中でも最大級を誇りました。そのため1611年に仙台城で伊達政宗に謁見したビスカイノは仙台藩領にある最強で最良の城の1つとして絶賛しています。本丸の正門は詰門と呼ばれており、本丸の北側に位置していました。詰門の周りには東脇櫓、そして西脇櫓がありました。今でも門の2つの礎石が残っているため見ることができます。
石垣
本丸の北と北西部には本丸北壁石垣、本丸北西石垣と呼ばれる石垣があります。本丸北壁石垣は四角い石が特徴です。きれいな反りを持っていることでも知られており、最も高い場所は約17mあります。一方の本丸北西石垣の特徴はその場所によって石の重ね方や形が異なっていることです。これは仙台城が度重なる地震の被害を受けてきたことが理由です。被災するたびに何度も再建されてきたため現在のような本丸北西石垣ができました。
脇櫓
仙台空襲によって一度は焼失したものですが、1967年に再建されました。一部二階建てです。1931年には国宝にも指定された脇櫓は現在でも仙台城が繁栄を極めていた時代を偲ぶことができます。
伊達政宗騎馬像
伊達政宗の像はいくつかありますが、天守台の騎馬像の近くからは仙台城と共に整備がすすめられた仙台の街が一望できます。騎馬像は1935年に設置されましたがその後戦争中には撤去され、その後1964年に現在の場所に新たに設置されました。
仙台城見聞館
2006年に完成した仙台城に関する説明や展示をしている施設です。本丸があった場所に作られています。館内では今では見ることができない本丸大広間などの施設についての歴史や模型を見ることができます。
開園時間