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上田城

 上田城は長野県上田市にある名城です。真田氏によって築城され、2度に渡る上田合戦で江戸幕府を開いた徳川軍の進撃を2度に渡ってしりぞけている難攻不落の城として有名です。また、上田城は27番目の日本百名城としても名高く、日本夜景遺産にも登録されいます。信州上田は温泉や住みやすい気候などでも有名で多くの観光客が訪れます。そのシンボルとして街の中心に位置する上田城は観光客の必見スポットとなっています。掘りと土塁で囲まれた城内には南櫓、北櫓、東虎口櫓門、真田石などの多くの見どころがあり、特に上田城千本桜祭りや真田まつり、上田城けやき並木紅葉祭りなど年間を通して催されている様々な祭りの時期には多くの人が訪れます。信州上田に足を運ぶ際には是非上田城で戦国時代にタイムスリップしてみませんか。

歴史

 上田城が真田昌幸によって築城されたのは1583年のことです。その後城主は2代真田信行(1600-1622年)、3代から5代までが仙石氏:3代仙石忠政(1622-1628年)~5代仙石政俊(1669-1706年)、その後6代から12代まで松平氏:6代松平忠周(1706-1728年)~12代松平忠礼(1859-1869年)と移り変わりました。真田氏は平安時代以降に現在の長野県東信地方にいた一族で、有名な戦国武将武田信玄に仕えていた時代に多くの戦績を残したことで勢力を伸ばしました。その中でも大きな功績は3つ、上田城の築城と第1次上田合戦、第2次上田合戦で徳川軍を退けたことです。

 第1次上田合戦は武田氏が滅亡した後に起こった徳川氏と北条氏の領土争いが遠因でした。その争いは両氏の和睦によって落ち着くこととなりましたが、その和睦の条件として北条氏は徳川氏に対し、真田氏が治めていた上州沼田を引き渡すように要求してきたのです。その要求を真田昌幸は拒否、それによって徳川と真田両氏の間で合戦となりました。徳川軍は約7000の軍を率いて真田氏の領地へと攻め入ります。一方でそれを迎え撃つこととなった真田氏はたった200の騎馬、1500に過ぎない兵しか擁していませんでした。それにも関わらず真田氏は上田城に千鳥掛の柵を設置するなど地の利を生かした戦術で徳川軍を押し返します。神川まで押し戻された徳川軍は神川の増水もかさなって大混乱となり真田氏との合戦は大失敗に終わります。敗退の際に徳川軍は真田氏が持っていた丸子城に攻め入りますがこれにも失敗しています。この合戦を経て真田氏の名前は全国に一気に知られることとなります。

 第2次上田合戦も圧倒的な兵の数を誇る徳川軍に対して、数は少ないながらも戦略によって真田氏が勝利した戦いとして有名です。豊臣秀吉の没後、天下分け目の関ヶ原の戦いを前にして政治の実権を握っていた徳川氏に対し石田三成らの軍が挙兵します。石田三成は真田氏に対して西軍につくように要請、結果として昌幸は西軍に、その長男である信幸は東軍につくこととなりました。そのため昌幸は関ヶ原の戦いに向かう途中の徳川秀忠軍と上田にて対峙することとなったのです。徳川秀忠の軍は約38000、一方の真田昌幸は約3000の兵しか擁していませんでした。合戦に先立って両氏の間で信濃国分寺にて対談が行われ、徳川側は真田側に対して上田城を明け渡すように要請します。真田側はその要請に対して味方を説得するために時間が必要だという理由で時間稼ぎをし、その間に戦いの準備を着々と進めていました。結果として城が明け渡されなかったため上田城に攻め込んだ徳川秀忠と互角の戦いを繰り広げことができ、結局徳川側は城を落とすことができなかっただけでなく、関ヶ原の戦いの開戦に遅れるという大失態をおかしてしまいました。2度も天下の徳川軍を退けるという戦歴を持つ城は全国広しといえど、上田城を除いで他にはありません。

 天下分け目の関ヶ原の戦いは東軍の勝利となり初代昌幸は退けられました。その代わりに信之が上田城2代城主となります。昌幸は大阪夏の陣・冬の陣でも奮闘しますが戦死してしまいます。信之はその後松代へと拠点を移し、松代真田家として栄えました。

 3代目の城主となった仙石氏は出身でしたが織田信長、豊臣秀吉に仕えたのち讃岐の国(現在の香川県)高松城の城主となりました。その後信州の小諸に移り、小諸城主となったのち、上田城主となります。仙石氏は上田城の再建に着手し、その時に多くの櫓や櫓門が建設されました。その中で現在でも残っている西櫓は長野県宝としても登録されている大変貴重な建築物です。明治維新の後、西櫓を除く櫓や櫓門は全て取り払われてしまいました。しかし2基の櫓はその後買い戻され1943年から24年の歳月をかけて再移築されました。現在見ることができる南櫓と北櫓がその2基です。1994年には東虎口櫓門も復元されることとなります。

 上田城を6代から12代に渡って収めた松平氏は1706年に出石、現在の兵庫県豊岡市から移封されてきました。松平氏は上田城を明治の廃藩置県まで約160年間収めた最後の城主です。この時代には信州を流れる千曲川の大洪水や地震によって破損した石垣や櫓などが修復されています。

見どころ

西櫓

 西櫓は建設当時から残っている唯一の建物です。尼ヶ淵の丘上に建築されました。劣化防止のために外の壁は下見板張りであり、軒の部分は塗籠という構造になっています。南櫓や北櫓とともに長野県宝として登録されています。武者窓と呼ばれている突き上げ戸の他に鉄砲や矢などを放つために作られた小さな窓なども見ることができます。

真田石

 真田石は東虎口櫓門の右手に位置する石垣にある巨大な石です。高さは約2.5メートル、幅は3メートルもあります。2代城主の真田信行が松代に移ることになった際、父であり初代城主の真田昌幸の形見として運ぼうとしましたが動かせずにあきらめてそのまま残したという伝説があります。石垣の石は上田にある太郎山から算出された緑色凝灰岩が使用されています。

真田井戸

 上田城の本丸跡に眞田神社(藩主松平氏を祀るために作られた神社であり、以前は松平神社と呼ばれていましたが、上田神社と名前が変わり、その後現在の眞田神社と改称されました)があります。神社の境内の中に直径2メートル、深さ16.5メートルある井戸が残っています。この井戸は真田井戸と呼ばれ、昔は抜け穴として使われていたという言い伝えがあります。

石樋

 上田城二の丸の堀にある水抜きです。以前は木製でしたが、1702年に仙石氏によって復興された際、石の樋に作り替えられました。

隅おとし

 隅おとしは上田城本丸の北東に位置しています。この方向は鬼門であるため鬼門を避けるために土塁の隅に切り込みを入れたのです。隅おとしは上田城ならではの観光スポットです。

尼ヶ淵

 現在では流れが変わったため見ることはできませんが、以前上田城の南側には千曲川の分流が流れていました。上田城はその分流を天然の堀として利用していました。流れがあることから強度を高める必要があり大規模な石垣が築かれています。この場所は尼ヶ淵と呼ばれており、そのため上田城は以前尼ヶ淵城とも呼ばれていました。

開園時間

1.上田城公園 24時間年中無休
2.北櫓、南櫓 午前8時~午後5時(入場は4時半まで)、4月~7月毎週水曜日と祝祭日の翌日は定休日、8月~10月無休、12月~3月閉館
3.上田市立博物館 午前8時~午後5時(入場は4時半まで)、毎週水曜日と祝祭日の翌日、年末年始(12月27日~翌年1月4日)休館