By using our site you agree to the use of cookies. We use them to increase the quality of this site especially for you, they help us understand your needs (help us collect statistics), help our partners deliver the right content displayed on our website. To learn more about the cookies please click here.

cookies
noimage

ヘンチーヌィ城の歴史

 ヘンチーヌィの地に城塞が建築されはじめた最も確かな年代は、13世紀の終わりから14世紀のはじめ、ポーランド王がボヘミア王の息子でプシェミスウ朝出身のヴァツワフ2世の時代だとされています。城に関する記述は1306年に遡ります。ヴワディスワフ1世ウォキェテクがヴァツワフ2世の予想外の死によって亡命から戻りクラクフを手に入れた際、ヘンチーヌィの城塞と近隣の村をクラクフ教区に返還することを約束しました。しかし1307年夏、王はクラクフの司教ヤン・ムスカトに陰謀の疑いをかけ、城塞を取り返して国の政治と軍事への重要な拠点と変えていきます。

 14世紀の前半、へンチーヌィの城に何度もマウォポルスカとヴェルコポルスカの騎士や要人、役人達が会議の為に集まり、複数の歴史家によれば、それは後にポーランド議会を作るモデルになったと言われています。1308年チュートン騎士団(ドイツ騎士団)の襲撃を恐れた大司教ヤニスワフは、何世紀にも渡ってポーランドの霊的中心地としての役割を果たしてきたグニェズノ大聖堂の宝物を、城に保管するために送ってきました。ヴワディスワフ1世ウォキェテクの時代に建てられた礼拝堂は、王家の財宝の避難先となることも珍しくありませんでした。1331年へンチーヌィ城の壁の下に、プウォフツェにおいてドイツ騎士団と血みどろの戦いに臨んだ軍隊が集められました。

 ヴワディスワフ1世ウォキェテクの死後、城は息子のカジミェシュ3世大王によって受け継がれ、ヘンチーヌィの城塞は増強されていきました。この時期、強大な王権の象徴としての塔が建築されました。カジミェシュ大王自身はヴァヴェルの王宮を好みましたが、へンチーヌィの城塞はこの所有者の無関心に異を唱えることはできませんでした。そして城塞は改装され、1356年カジミェシュ大王との婚姻生活が子供をなさずに終わるまで、王の二番目の妻アーデルハイド・フォン・ヘッセンの住居となりました。1370年、城はカジミェシュ3世大王の姉妹でポーランド王家の統治権を握ったエルジュビェタ・ウォキェトクヴナの所有となります。

 14世紀の終わりポーランドの王座にヴワディスワフ2世ヤギェウォがついたとき、ヘンチーヌィ城に地下牢が作られ、短期間ではあったものの王の対抗馬であった異母長兄アンドリュス・アルギルダイティスが収監されていました。1410年グルンヴァルドの戦いおよびコロノヴォの戦いでドイツ騎士団が敗北した後、ヘンチーヌィ城の地下牢には、後にドイツ騎士団総長となるミヒャエル・キュヒマイスター・フォン・シュテルンベルクを含む名の知られた騎士たちが沢山収監されました。1425年にペストが流行した際には、へンチーヌィの城塞はヤギェウォ王の幼い息子でのちのヴワディスワフ3世ヴァルネンチクの避難所の役目を果たしました。

 1465年城内は大規模な火災に見舞われ、かつての素晴らしい姿に戻るには長い時間を要しました。16世紀の後半、ポーランドを去るジグムント1世の未亡人のボナ・スフォルツァ王妃が膨大な富をイタリアに持ち出すため城を訪れます。ある伝説によると、20台の荷車の重みで城の近くを流れるチャルナニダ川の古い橋が壊れしまいました。この時の財宝によって川の水は現在でも夕日を受けて輝くのだと伝えられています。そして王妃の霊は失った箱を探しだす助け手を求めで、ヘンチーヌィの城をさ迷い歩くのだそうです。

 ボナ・スフォルツァ王妃が去って程ない頃城は再度火災に見舞われます。火災の後城はその重要性を失い1588年には郡の公文書が城から教区教会に移されるという情けない状態となりました。1607年ゼブジドフスキの反乱の際には、へンチーヌィ城は反乱者たちの手に落ち武器庫とその補強壁が破壊されるなど、この歴史的な建物は大規模に破壊されてしまいました。 数年後、へンチーヌィの知事スタニスワ・ブラニツキが、後期ルネッサンス様式の貴族の邸宅風に城を再建し始めました。「大洪水」の時代、城はカール10世の攻勢に、続いてスウェーデン王の同盟者トランシルバニア公ラーコーツィ・ジェルジ2世に苦しめられました。

 1707年城は再びスウェーデン軍の餌食となり略奪され焼かれました、その後半壊した建物は最終的に崩壊してしまいました。1787年7月スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ王がその地を訪れた際の礼砲が、城壁が砲台としての役目を最後に果たした時となりました。三国分割の後、城は年月の流れが建物に及ぼす力に無頓着なオーストリアの所有となります。城の周辺に住む人々はこの機会を逃さず、廃墟となった城から自分達の目的の為に建設資材を持ち出しました。歴史的建造物としての城塞再建の必要性が説かれ始めたのは、1840年ヘンチーヌィがポーランドにおける歴史的・建築学的記念碑の登録調査団を迎えたことによります。

 この古き城が辿っている運命について、有名な作家ヘンリク・シェンキェヴィチの公開書簡が幾つかの雑誌や新聞記事に掲載されました。しかしヘンチーヌィ城の壁の修復作業が始まったのは1880年代と大変ゆっくりとしたテンポでした。第一次世界大戦の際、丘の上にある城塞の塔の一つをロシア軍が観測地点としたため、この塔は砲撃によって破壊されてしました。建物の再建は第二次世界大戦後の1948年から49年まで行われ、城塞には再び高い塔が建てられました。1950年代の終わりに城壁の一部が再建され、十年後その周辺でイェジ・ホフマン監督によって有名な映画「パン ヴォウディノフスキ」の戦闘場面が撮影されました。